「大都会梅田に、今も残る能勢街道の歴史を歩く」


- 江戸時代には中国街道・能勢街道の要所として、数多くの旅人が行き来して、鶴乃茶屋や萩乃茶屋といった名物茶屋が並んで賑わったという茶屋町界隈。菜の花畑が一面に広がり、それは大坂・毛馬生まれの漂泊詩人・与謝蕪村の心の故郷、原風景でもありました。大都会梅田の中心部にありながらも、よく眺めれば、旧街道の名残がちらほら見えてくる。そんな茶屋町界隈を歩きます。
- 北野天神とも通称され、概ね旧西成郡北野村を氏地としている。 茶屋町に当社の御旅社があり、角田町に境外社の歯神社がある。菅原道眞公が、太宰府までの左遷の際に、この地で今を盛りと咲いていた紅梅に目を留められそれご覧になるため船の艫綱を円く円座状に敷いてご覧になられた由縁より、「綱敷」の名が興る。ココには当地の関わる2つの言い伝えがある。あくまで言い伝えであるが。菅原道真の従者、白江氏は、御遺訓に従い、この地に留まり、紅梅の樹下に小祠を営み、号を梅塚天満宮と称し、道眞公の御霊をお祀りしました。この梅塚が「梅田」の名の由来となったとも云われている。正暦四年(西暦993年)に北野(喜多埜)天神社という社名を称するようになった頃から、当地周辺を北野と呼ぶようになり、いこの「喜多埜」が「キタ」となり、現在の梅田周辺の繁華街を指す「キタ」の語源になったと伝えられています
- 大正3年6月1日施行の通町名改称で新設された町域。大正3年6月1日施行の通町名改称で新設された町域である。かって街道に架かっていた萬載橋が名の由来といわれてる。萬載橋の親柱は現在喜多埜稲荷神社に保存されている。
- バンザイと発音するようになったのは大日本帝国憲法発布の日、1889年(明治22年)2月11日に青山練兵場での臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって東京帝国大学の学生が万歳三唱したのが最初だという。当初は文部大臣森有礼(ありのり)が発する語として「奉賀」を提案していたが、「連呼すると『ア・ホウガ(阿呆が)』と聞こえる」という理由から却下された。
- 社名を「綱敷天神社 末社 歯神社(つなしきてんじんしゃ まっしゃ はじんじゃ)」と称し、今から数百年前に梅田一帯が大洪水に見舞われ、あわや水没するかにみえた折、地元の人間がお祀りしていたお稲荷さんの御神体である巨石(本殿地中深くに鎮座)が、流れ来る水を歯止めし、梅田の水没を防いだことから、歯止めの神さまとして慕われました。のちに歯止めの語呂が転じて歯痛止めにご利益があるお社といわれ、いつの頃からか歯神社とよばれるようになりました。
- 南北に縦断する池田街道筋に三軒の茶屋があった事に由来する。三軒の茶屋とは「鶴の茶屋」、「萩の茶屋」、「車の茶屋」である。特に鶴の茶屋には二羽の鶴を放し飼いにしたところからきている。当時の大阪の有力者の人々が、与謝蕪村が歌ったように「菜の花や 月は東に 日は西に」と菜の花や萩の花、月の風情を愉しむといった憩いの場として、前記の茶屋などの料亭が客を招いていたところであった。
- 明治22年(1889)に完成した木造9階建ての娯楽施設(展望台)です。高さは130尺(39メートル) ほどで、1、2階は5角形、3階からは8角錘台の形で、その上に丸屋根がついていました。周囲には四季おりおりの花が咲き誇り、茶 店、遊戯場が設けられたといいます。今宮村(現在の浪速区・日本橋あたり)にも「眺望闇」という同じような娯楽施設があって、そちらを「ミナミの5 階」、凌雲闇のことを「キタの9階」と呼んで、当時の大阪庶民に親しまれましたが、残念ながら昭和初めには撤去されてしまいました。
- 与謝蕪村(1716〜1784)は江戸時代中期の日本の俳 人・画家で、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市部島区毛 馬町)に生まれました。20歳の頃に故郷の毛馬村を出て、江戸や下総、東北、丹後、讃岐など各地を旅しながら多くの 俳句を詠みました。江戸俳詣中興の祖として、松尾芭蕉、小 林一茶と並び称される巨匠で、また俳画の創始者でもあり ます。晩年は京都で暮らして、清貧の中で生涯を終え、一度も大坂・毛馬には帰りませんでした。この句は安永3年 (1774)に作られた句です。江戸時代から明治初年の頃までは、蕪村の故郷の毛馬から天満、茶屋町にかけては、あた り一面、菜の花畑でした。
- 御旅社は元々は本社の南にあり、古くは「梅塚天神」といって、菅原道真公が眺めたという紅梅がありましたが、明治初年頃に梅田・茶屋町の氏神さまとしてお迎えしたいという住民の土地の寄進があって、現在地に鎮座しました。臨時で設けられる普通の「御旅所」とは異なっていて、常に御祭神がご鎮座しているので「御旅社」といっています。
- このあたりは能勢街道と中国街道の分岐点であった。まっすぐ北が能勢街道で左にとると、中国街道である。能勢街道は新橋の渡しで現淀川区の木川、池田市を経て妙見山の能勢妙見堂に至る旧街道に至る街道である。中国街道の渡しは十三の渡しで尼崎を経て西宮で西国街道に合流する。萩之橋は能勢街道を 横切るように流れていた水路に架かっていたもので、近くに萩の名所で有名な東光院(萩の寺)があったので、それにちなんだ。 東光院は阪急電車ができる際、宝塚線の曽根に移転、小林十三の強い勧めがあったかとか
- かってここには梅田貨物線がありガードの下を中国街道・能勢街道が通っていた。なお梅田貨物線は現在地下に潜り大阪駅の北側に地下駅となり、現在は福島で環状線に繋がっている。将来はなにわ筋線として南海線、ならびにJR難波と繋ぐ予定である。
- 「カンテ・グランデ」とは、スペイン語の 「CANTE=歌」と「GRANDE=偉大」をくっつけた造語です。大阪のインド系喫茶の草分け的存在ともいわれています。緑あふれる開放的な空間で、チャイやケーキ、本格的なカレーなどが楽しめます。
- 速素垂鳴尊を主神に祀っています。創立年代は不詳ですが、社伝によると室町時代には既に存在していて、牛頭天王社・祇園社と称していたが、利島神社と呼ばれていた時期もあったようです。明治後期に付近にあった春日神社、天満宮、鷲 島神社、八坂神社などを合祀し、この辺りを「冨島の荘」と呼んでいた時代があったこ とから、明治43年に社名を冨島神社に改める。節分には厄 除けの土鈴「冨の鈴」が授与されます。西北の隅にある「十三思昔(じゅそうしせき)会の碑」淀川改良工事で沈んだ旧十三地域の住民が「今昔の情禁じ難く」結成した親睦会。
メニュー 浪花の義侠・木津勘助ゆかりの地と謎の巨大獅子頭を訪ねる
大阪歴史案内人 沖本然生-
小野妹子の八男・多嘉磨義持(法名:聖伝院永証)が推古11年(603)に創建し、はじめは無量寺院と称していました。
当時は西北数百メートルの場所にありましたが、応仁の乱により焼失し、永正4年(1507)に現在地で再建しました。
江戸時代は、紀伊徳川家の参勤交代の陣屋となり、徳川家より三ツ葉葵の寺紋を許されています。
かつて伊達政宗 か寄進した客殿・茶室が国宝としてありましたが、惜しくも戦災で焼失しています。
京都の作庭家・相阿弥の作とされ る庭園もあって、こちらも樹木などが焼失するも現在は復元され大阪府名勝指定である。
また江戸期の争乱で四天 王寺舞楽が衰退したさい、願泉寺が尽力して天王寺楽所「雅亮会」で、その練習場、事務所にもなった。
折口信夫の 墓もある。
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用明天皇(在位585〜587年)の時代に、天種子命(あめのたねこのみこと・中臣氏の遠祖)の子孫・迹見赤摂(とみい
ちひ)が、木津浦に草庵を構えたのが起こりと伝えられ、
その後。三十三世光王が蓮如上人の弟子となり、明応7年 (1498)に坊舎を建立、天正7年(1579)に唯専寺の号を授与されました。
本願寺と織田信長との石山合戦のさいの功 績により、明治44年(1911)に本山から由緒寺として認められる。
境内には寛永14年(1637)鋳造の梵鐘や木津勘助 の墓がある。
また勘助の妻は豪商・淀屋辰五部の一人娘・お駒で、墓参りの帰りに袱抄包を拾ったことが由緑で結ば れるというエピソードも有名である。
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神社の由緒略記によれば、神功皇后が敷津浦を航海するさいに荒波がうちよせるのを見て「これ以上、潮が満ちな
いように」と松の木を3本植えて航海の安全を祈ったことから「松之宮」と呼ばれたとある。
また延享元年(1744)に神 託があり、出雲杵築大社の御神霊を勧請して、大国主神社が建てられました。
古くより「今宮の戎さん」(今宮戎神社) と並んで「木津の大黒さん」と親しまれ、
初詣や十日戎まいりにも「戎、大国、両社掃って本まいり」と、江戸時代から の参詣風習が根強く残っています。
ちなみにご祭神の素戔嗚尊と大国主命は親子の関係となる。
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敷津松之宮・大国主神社境内にあります。
秀吉に才能を認められ、徳川時代にも木津川の開削などで土木技術者と して活躍した木津の勘助ですが、
彼の名を一運有名にしたのは、
寛永16年(1639)に大坂が大飢種となったさいに、 私財を投じて村人に米を分け与え、
それでも足らないので、大坂城の備蓄米の施しを願い出ましたが聞き入れられ ず、
ついに「お蔵破り」を決行して、大坂庶民を救ったことです。
結果として勘助は捕まって葦島(あしじま:現在の大正区)に島 流しとなり、万治3年(1660)、75歳で亡くなりますが、
その生きざまは、歌舞伎、文楽、講談、落語、浪花節、江州音頭 、河内音頭などの格好の題材となり、浪速の義侠・木津の勘助の名を不朽のものとしました。
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民俗学者の折口信夫は、明治20年(1887)に、医師・折口寿太郎の四男として、西成部木津村市場筋に生まれました
。
民俗学者・柳田再芳の影響を受けながらも、「マレビト」「ヨリシロ」といった独自の研究成果は、民俗学の新境地を 開いたものとして「折口学」と呼ばれて、高く評価されている。
歌人としても活躍。
昭和28年(1953)に亡くなり、願泉寺 に分骨埋葬されています。
市制70周年記念として碑が建立され、昭和58年(1983)には「十日戎」の−文を刻んだ文 学碑が建てられました。
「ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかにおのづからわれも待ちごころなる」
「正月がすむとすぐ 十日戎である今宮の戎前から難波の入堀川に面したお蔵跡まで十丁あまりの間にずつと小賣店その外の店が出て 揉み返すやうな人ごみである
其中を押され押されて来る色町のほい駕籠を見に出た記憶が消えない」
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本名中村勘助。
天正14年(1586)相模国(現・神奈川県)に生まれて、豊臣秀吉に仕え、大坂城築城のさいは境防工 事や新田開発を請負い、たいへん重用されたと言います。
また徳川時代にも、川崎の東照宮普請や河川御用係とし て清孝(?)し、木津川の開削により大坂の発展に寄与しました。
勘助橋は、その勘助が架けた橋の跡地で、石碑の側面 には「橋はなくとも勘助橋は渡りますぞえいつまでも」の俗謡が彫られています。
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創建年代は不詳ですが、社伝によれば、仁徳天皇の御代に難波郷に悪病が流行して、牛頭天王を祀ったのが神社
の始まりで、
「難波下宮」と称されて、難波一帯の産土神でした。
後三条天皇の延久年間(1069〜1074)には牛頭天 王の古社として知られ、
もとは神仏混交でしたが、明治5年(1872)の神仏分離により、神社となりました。
ご崇神・素 戔嗚尊が八岐大蛇を退治して、民の困苦を除いた故事に基づいた網曳神事は、「摂津名所国会」にも紹介されて、
平 成13年(2001)には、大阪市初の無形民俗文化財に指定されました。
高さ12メートル、幅11メートル、奥行10メートルと いう巨大な獅子舞台でも有名である。
獅子舞台は鉄骨・鉄筋コンクリート殿内一部木造
外観は銅粉吹き付け合成樹脂仕上げ
内部神殿には 御祭神 素盞嗚尊の荒魂を祀る、唐櫃上加賀獅子一対奉安、
獅子の二十四の歯、目の周りは、真鍮製
折腰格天井にはめ込 まれている鳳凰の彫刻は、全て手彫りでその意匠が異なっている。
又目はライト、鼻はスピーカーの役割を果たして いる。
舞台ではお正月には、神楽・居合道など、夏祭りには、獅子舞・民踊等各種芸能が奉納される。
御祭神,素盞 嗚尊が我国始めて和歌を詠まれた神でもあり、
難波八阪神社の毎年1月の第3日曜日に行われている綱引神事は 当社の御祭神、素盞嗚尊(すさのをのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、民衆の困苦を除かれた故事に 基づき始められたと言われている。
夏祭は、毎年七月十三日・十四日の両日に亙り盛大に斎行致します。
当社の夏 祭は、氏子はもとより、近隣各地より多数の参拝が有り、神輿・太鼓も数多く参加し渡御も千日前・道頓堀・戎橋筋を 巡行すると言う。
天神祭か難波祭といわれ船渡御、江戸の終わり流血のため奉行より中止、大正4年に復活する
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かつて大阪・難波一帯に今から100年ほど前には「葱の海」と呼ばれるほど葱畑が広がっていた。
難波といえば葱!というほどの名産地で、南海電鉄の難波駅は明治18年に完成しましたが、その周辺は一面葱畑だ ったと社史に記されている。
葱は中国西部やシベリアから、日本では大阪に最初に伝わり 京都の「九条葱」は1200年 前に難波から京都へ、 関東の「千住葱」も江戸時代に難波葱が伝わっている。
難波葱は日本の葱のルーツといえよ う。
平成29年(2017)「なにわの伝統野菜」に認証された。
令和2年(2020)2月に石碑が除幕となった。
難波村の葱栽 培は享保十年(1725)に初見され 明治初年には50町歩あり 難波一帯は広大な葱畑であった。
難波葱は葉の繊維 が柔らかく 強いぬめりと香り 濃厚な甘味が特徴である。
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難波八阪神社の境内社で、大坂代官・篠山十兵衛景義(1755〜1818)を配っています。
十兵衛は誠実謙虚な人柄で 、淀川の治水、物価の安定化から夫婦喧嘩の仲裁まで心を配った名代宮です。
難波や木津辺りは野菜頬の栽培が 盛んでしたが、当時、野菜売買は天満青物市場が独占していて、不平不満が高まっていました。
そこで十兵衛が尽 力した結果、文化7年(1810)、木津村に市場開設の官許が出て、これが現在の大阪木津地方卸売市場で、十兵衛は 木津村発展のきっかけを作りました。
代官を辞めるさいは住民から留任嘆原書が老中に提出されましたが、大坂を 散れることになり、木津の人々は報恩の気持ちを込めて、十兵衛を生きたまま神として祀り、それが現在の篠山神社 です。
神社の隣には「世の中のあふぐもたかき功こそ巌とともに朽ちせざりけれ」(世人が仰ぎ見るほどの功鋳で、こ の石碑とともに朽ちることはないだろう)の歌碑が建っています。
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元は難波村の薬師堂でしたが、寛文10年(1670)に黄葉宗の僧・鉄眼道光和尚を招いて中興開山し、延宝4年(1676)
に慈稟山瑞龍寺と改号しました。
鉄眼和尚の徳の高さから、鉄眼寺とも呼ばれています。
鉄眼和尚(1630〜1682)は 肥後国の生まれで、当初は浄土真宗を学びましたが、明磨元年(1655)に隠元隆gに参禅して禅宗に帰依。
寛文4年 (1664)に「大蔵経」の刊行を発願し、全国行脚して施財を集めるが、2度、洪水や飢饉による大坂難民の救済に施し 、3度目に集めた浄財で、ようやく一切時の木版6956巻32万頁を完成させる。
延宝6年(1678)のことで、「鉄眼は一生 に三度一切経を刊行せり」と、その偉業を試えられ、昭和4年(1929)には昭和天皇より宝蔵国師の名を下賜される。
境内には「鉄眼禅師荼毘処地」の碑がある。